とある編集者の晒しな日記

コンクリートジャングル東京の編集プロダクションに勤めるライターの実験室

【あなたはどっち?】人間の本性は「善」か「悪」か?

人間の性根の部分を一概に善か悪かで判断するのもどうかと思うのですが、個人的には性悪説からアプローチした方が、人間関係が円滑に進むと思っています。

 

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性悪説」と「性善説」の定義については、ここでは簡便に「人間の本性を悪と考えること:性悪説」、「人間の本性を善と考えること:性善説とします。

1.人間の本性を「悪」と捉えた方が裏切られた時のダメージが少ない

性善説」であろうが「性悪説」であろうが人間は過ちを犯すものです。しかし、人間が本質的に「善」であるという前提に立つと、何度も同じ過ちを繰り返す人々に対して、「人間の本性は善であるはずなのだからいつかは立ち直る」といつまでも見限れなくなります。

 

しかし、個人的には、人間は本質的に「悪」であると見切ってしまった方が、いざ裏切られた時にそのショックは少なくてすむと思います。「この人は本当は善い人なのだから、いつか更生するに違いない」と、重大な過ちを犯した人にいつまでも情をかけつづけるのは、時間の無駄だと思っています。

2.人間の本性が「悪」だと思えば多少の悪事は看過できる

テレビで見ますよね?「あの芸能人○○がそんな悪事を働いていたとは思えない」というコメントとか、「お隣に住む愛想のいい〇〇さんが犯罪者だったなんて信じられない」という証言とか。

 

私はこういうコメントを見ると、赤の他人が悪事を働かない保証などどこにもないのに、驚きのコメントを述べる方が不思議だと思ってしまいます。芸能人やご近所さん、もっと言えば配偶者やその他の家族にしたって、本質的に善であるという根拠はどこにもありませんよね?私は「あの好感度の高い芸能人の○○がまさかの悪事!」のようなタイトルには踊らされません。「ああ、毎日毎日周囲に笑顔を振りまいているこの人も性悪だったんだな」と犯した事実だけを見て認識するだけです。

3.イメージは大事だけれどもそのイメージを維持し続けるのは大変なこと

好感度の高い芸能人や「あの人は好い人だ」と見られている有名人っていますよね?彼らがそのイメージを維持し続けるだけで相当なストレスを抱えていると思うのです。

 

人間ですから、当然欲求は多々あるわけです。性欲なのか食欲なのか承認欲求なのか、それが具体的に何なのかは知りませんが、「好いい人」と言われている人が終生善行を続けていけるとはとても思えません(聖人や僧侶は別かも知れませんが)。

 

わけても、これだけのストレス社会にさらされている我々は、「好い人」と見られている人にまで、あえて悪意を向けたりする人もいます。「八方美人」や「好感度を上げたい人なだけ」といったような言葉で。事実その通りなのかも知れませんが、本人がそういう評判を聞いてしまうと、彼らはどこかで「善人を演じている」という評判に対して反発心を覚えてしまうかもしれません。

4.「性悪説」だからこそ、その人の良さが見えてくる

これが言いたいのですが、人間の本質は「悪」だと捉えると、気持ちが非常に楽になります。「好い人」と言われている人が悪事を働いていたことを知った時のショックの緩和はもちろん、「悪人」だと言われている人に対しても寛容になれることが一番大きいです。

 

例えば、同じ職場でもみんなが毛嫌いするような人物って時々いますよね?「性根が腐っているんじゃないか?」と疑われるような人物です。

 

性悪説」という立場を取れば、何かをやらかしても「人間の本性は悪だから仕方ないよね」と寛容になれますし、なんといっても逆にその悪人からなんらかの好意を示された時に、「あの悪人にこんな良い一面があったなんて」と良い点に目をやることができます。

 

つまり、世の中の人を最初からみな大なり小なり悪事を働く「悪人」だと考える視座を持てば、大抵のことに動じないばかりか、自分から見た「本当の悪人」にすらイライラを覚えることを抑えることができます。

5.結論

例によってトンデモ理論を展開しましたが、人間の本性を悪とするこの「性悪説」の考え方を持ったことで、私は実生活でかなり寛容な心を持つことができたような気がします。

 

「うちの人に限ってそんな悪事は働かない」だとか、「あの人は本当は善い人なはずなのに」などと幻想を抱いていると、裏切られた時のショックが大き過ぎるのです。ならば、最初から人間は「性悪」なのだからと割り切ってしまうことで、他人に頼りすぎることもなく、自分自身の徳を積むことによってあらゆる不確実な事象に対応できます。

 

「そんな世知辛いことを言われても」と思われるかも知れませんが、他人を変えることはとても難しいことなので、他人を信じて何かを期待するよりも、自身を変えていく方がよっぽど簡単だと思いますし、自分の為にもなると考えています。他人から与えられる好意は自身の善行のオマケ、悪意は悪行の報いくらいに考えていれば、滅多なことでは動じることがありません。

 

第一、自分自身が「性悪」なのですから、「善人」が寄ってくるはずがありません(笑)。悪にまみれた俗世間だからこそ「善」が輝くのです。見方を変えるだけで、世の中の不条理に対してだいぶ柔軟に考えることができると思いませんか?これにとって代わる考え方があれば教えていただきたいくらいです。