【教えて!はてな】東京一極集中の流れって止められるの?
総務省統計局のデータによれば、平成28年10月現在の東京圏(東京都、埼玉県、神奈川県、千葉県の総人口を足し合わせた数)の人口は3592万2000人で、同時期の総人口1億2693万人の28.3%が東京圏に住んでいることになる。
実に日本の人口の3割近くが東京圏に集中しているのだ。「地方創生」が叫ばれて久しいが、大胆な施策を打たなければ、もはやこの「東京圏一極集中」の流れは止めることができないという局面にきているといっても過言ではない。
学術的な考察は専門家に任せるとして、「東京圏一極集中」の問題がいかに抗し難く重大な問題なのか、実感として所見を述べさせていただきたい。
1.そもそも一極集中の流れは「悪」なのか
東京生まれ東京育ちの私に言わせれば、政府がいくら「地方創生」を叫んでみたところで、首都圏外からの人口流入は続くし、人口流入にともなってあらゆる需要が増加してヒト・モノ・カネも流れ込んでくる。
しかし、これは果たして悪いことなのだろうか?いわゆる「地方」が衰退して過疎化が進み、地域経済の疲弊や高齢者の介護や孤独死の問題など、地方にしわ寄せがいっていることは分かる。このまま人口減少と高齢化がさらに進めば、地方が消滅の危機に瀕することも現実問題として顕在化するだろう。確かにこれは由々しき問題かも知れない。
2.人はなぜ「地域」にこだわるのか
何をもって「地方」と呼ぶのかについてはこの際措いておく。では、「地方」もとい、「地域」と「人」を結びつける結節点とはいったいなんなのであろうか。
・家族
・伝統・文化
・仕事
・郷土愛
・宗教
などなどであろう。元々その土地で育ち、その土地で就職・就労し、地域のコミュニティで育んだ縁故というものを大事にしたり、祭りや神事、土着の宗教などその土地に根差した伝統文化や風習を守るためにその土地を離れられなかったり、ふるさと愛から都会に移り住むなどという選択肢が端からなかったり…といった点は指摘できると思う。また、先に述べたように、高齢の親族を置いて土地を離れられないといった家族の問題もあるだろう。
私にはいわゆる田舎の「原風景」といったものがない。あなたの中にはあるだろうか。目を閉じると浮かんでくるようななつかしい夕暮れ時の田園風景や地元のにおい、ともに育った仲間、夏の終わりに秋の訪れを告げる物寂しい虫たちの鳴き声、泥まみれで実家や農家の畑仕事を手伝った時の柔らかい土の感覚…
そういったなつかしいものを捨てて、あなたは今この大都会で暮らしているのである。
3.背に腹はかえられない
個々人によるが、生きていくためには、仕事なりお金なり、家族が必要だ。全てを地方で賄えることができるのであれば、地方に住むことも可能かも知れない。もしくは何かを犠牲にしてでもその土地に居続ける理由があれば当然地方に住み続けるだろう。
ところが、現実には多くの若者が進学を機に首都圏に出て、都会の企業に就職し、職場や大学といった都会で出会った人と結婚し、そのまま都会に住み続ける。自然な流れだ。「首都圏」を「他の大都市」に置き換えても同じことである。都会で出会った結婚相手が地方出身者だからといって、わざわざ相手の実家に戻ろうという気など起きないかも知れない。第一、夫婦にはそれぞれの実家があるのだ。どちらかを立てるというわけにはいかない家庭の事情もあるだろう。
4.首都圏に住むメリットが大きすぎる
東京圏の一極集中が進んだからといって、私に彼らを責める気はまったくない。むしろ歓迎する。新しい人が新しい刺激を与えてくれ、若い才能は大都市に集中し、日々進化を遂げ続けるのが東京だ。
一度東京の味をしめてしまったら、逆に地方に留まり続けることの方が難しいことも想像に難くない。何せ、東京で手に入らないものを探すことの方が難しいくらいだ。魚が食べたいと思えば、
こんなものが1000円ちょっとで食べられるし、肉が食べたいと思ったら、
鶏肉と豚肉と牛肉を同時に味わうなどという荒業もできてしまう。食べ物だけではない。東京にいれば大概の物は24時間365日手に入り、好きな映画を観る事ができ、好きなスポーツができて、好きな欲望を貪ることができる。この欲求を満たす東京に敵う場所が他にあるはずもない。
5.この国のゆくえ
少なくとも私は考えたことがあるし、明確な答えも持ち合わせている。私なりの考えを披露しても構わないが、政治的な部分に踏み込むことにもなるのでここで言明するのは避けておく。
ただ、このまま成り行きで「東京圏一極集中」の傾向を野放しにしてしまったら、そのうちにこの国が行き詰まることは確かであろう。高齢化と人口減少がさらに進み、地方の働き手は減り、農林水産業に従事する人も減り、食料自給率は下がり、輸入依存度が上がっていくだろう。
問題は、世界に類を見ない債務国としていざ財政破たんした時に、頼るべきものが何もなくなるということだ。人口は大正時代末期には6000万人に過ぎなかったのだから、人口減少そのものに耐え得る社会というものは実現できるかもしれない。しかし、大正末期と現代では人口分布も人々の職業形態もまったく異なっているのだ。
この国がどこへ行き、どんな姿になるかというのは、政治家に任せておいていい問題だとは思わない。事実、少なくとも私は現代の政治家に、この国があるべき姿の実現可能なビジョンなり未来像といったものを、青写真ですら見せられたことがない。
それならば、我々国民一人ひとりが自らこの国を憂い、もしくは明るい希望を持って未来を語れるようなイメージを持つべきではなかろうか。さもなければこの国は政治家(選挙屋)の当座凌ぎの口八丁手八丁に騙されたまま、早晩崩壊することは目に見えている。
妙に真面目くさったエントリーになってしまったが、今現に起きている地殻変動ともいうべき社会の変化を通して、思うところがあったので書き記しておこうと思う。
以上