とある編集者の晒しな日記

コンクリートジャングル東京の編集プロダクションに勤めるライターの実験室

「脱原発」だけを叫ぶのは都合が良すぎる

これはだいぶ以前から考えていたことなのだが、なかなかこの考えを吐露する場がなかったので、記事にする前に躊躇はした。しかし、原発の問題も国民の多くから忘れ去られてきているかもしれないので、あえてここで書かせていただきたい。この記事を書くにあたって前置きをさせていただくが、私は原子力に関してズブの素人である。

 

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1.事故が起きてから「脱原発」では説得力が無い

脱原発へ向けて精力的に活動されている方がいることは知っている。将来的に脱原発を目指すべきであることも分かっている。しかし、東日本大震災津波によって、ある日突然福島第一原子力発電所の事故が起きたからといって、途端に脱原発を唱え始めたのだとしたら、それは少々筋が違うような気がしてならない。

 

なぜなら、日本国民はこれまで数十年もの間、原子力エネルギーの恩恵に与ってきたという事実があるからだ。排ガスを出さない極めてクリーンなエネルギーとして国民をそそのかし、原子力政策を推し進めてきた政府が悪いのか。それとも、その政策を容認し続けてきた国民が悪いのか。どちらかはわからない。しかし、「何かが起きる」可能性があったのであれば、その「何かが起きる」前に対処しなければならなかったはずだ。

2.チェルノブイリ原子力発電所事故は他人事だったのか

なぜこんなことを言うかというと、核エネルギーが「クリーンなエネルギー」でないことは、チェルノブイリ原子力発電所の事故でとっくに知れていたことだからである。

 

チェルノブイリ原発事故の頃から脱原発を訴えていた方には正当性があるが、福島原発の存在を知りながら、対岸の火事のように気にもかけず、何十年も核エネルギーの世話になってきた身としての呵責はないのだろうか。

 

しかも、エネルギーは福島県に作らせて、消費は当の福島県ではなく、関東圏でおいしくいただくという都合の良さである。まるで図ったかのようではないか。いざという時のリスクを知りながら、その「いざ」という事態に陥った時に、それまでの福島原子力発電所のエネルギー消費者は直接的な被害を受けない。消費者の地域が立ち入り禁止区域に指定されることもない。

 

あまつさえ、事故を受けて初めて臭いものには蓋をしろということか。もしそのような考えだとしたら、私たちは何か思違いをしている。こうなってしまった以上、責任を取って我々は原発」と共存していくほかはないだろう。

3.「福島原子力発電所」というネーミングはなんとかならなかったのか

本題からは逸れるが、「福島原子力発電所」と銘打ってしまったのは結果としてよろしくなかった。福島県全体」が風評被害にさらされるからだ。チェルノブイリ福島県事故前の人口を比較すればその影響を容易に推し量ることができる。チェルノブイリが約5万人なのに対して、福島県は約200万人だ。

 

実に40倍もの人口差があるのだ。福島県の中には風評被害も甚だしい場所がたくさんある。200万人近い住民が、今も「Fukushima」というスティグマと戦っている。

 

犯人捜しをする気はないが、仮に福島原子力発電所を地区名にしていたら、どれほど風評被害を抑えられたのだろうか。残念でならない。

4.「脱原発」の前に「核廃絶」だろう

前例はチェルノブイリだけではない。広島、長崎も同じように核エネルギーの被害者である。それも日本は空前絶後、核兵器の唯一の被爆国である。

 

原子力この時点で見切りをつけておくべきではなかったのだろうか。性懲りもなく原子力政策を進め、さんざん利用しておきながら、しかも事故の前例がありながら今になって「脱原発」では筋が通らない。原子力政策を進める国の民になったつもりで考えて欲しい。広島や長崎、チェルノブイリの手痛い悲惨な教訓を再三目の当たりにしながら、結局は核エネルギーに依存してその恩恵を享受して、被害を受けたところで初めて「脱原発」である。私が外国人であれば聞いて呆れる。

 

「ああ、あの地震が最も多い国の原発でしょう。それはいつか天変地異が起こるよね」

 

という心の声が透けて見える。広島、長崎の時点でそもそも核とは訣別すべきではなかったのか。

5.オバマ元大統領がトランプ氏に言ったことは最高の皮肉

トランプ大統領が当選する前、オバマ元大統領が「トランプに核のボタンは任せられない」という旨の批判をし話題になったと聞くが、これほどキツいアメリカンジョークは無い。事実その核のボタンはトランプ氏に預けられたのだ。

 

いや、預ける預けない以前の問題である。そんな殺生なものがこの世に存在していていいものなのだろうか。いいはずがないだろう。

 

例えば、米国大統領とロシアの大統領の関係はゲーム理論でいうところの囚人のジレンマと同じことである。つまりは大統領が互いに、右手では銃口(核弾頭)を相手の額に突きつけ、左手では握手をしているようなものである。「起きてからでは遅い」出来事が、実際に「何が起きてもおかしくない」状況になりつつあるのだ。

6.まとめ

恐らく、我々は自らの科学技術の力を過信しすぎたのだろう。原子力エネルギーは、人間にコントロールできる代物ではなかったのだ。それは広島、長崎の原子力爆弾投下の時点で痛いほど思い知らされていたはずだ。

 

私が言うまでもなく、みなさんよくご存知だと思うのだが、「世界から核をなくす」というところが、我々日本人が目指すべき場所だろう。「脱原発」ではもう遅いのだ。日本人が説得力を持ったメッセージを世界に発信したいのであれば、核エネルギーや核兵器、核実験といったすべての核を、この世から消し去ってしまわねばならないだろう。そのぐらいの覚悟がなければ、日本だけ脱原発に向けて重い腰を上げたとしても、世界は逆行して、やがて自らの手で人類を滅ぼすだろう。

 

のらりくらりと次世代に残す前に、根本から「核」という名の負の遺産を断ち切るべきではなかろうか。

 

以上