とある編集者の晒しな日記

コンクリートジャングル東京の編集プロダクションに勤めるライターの実験室

【はてな脳】記事を読む前にコメントを見てないか?

あえて書かせていただく。はてなブログを閲覧する時に、記事を読む前に先にコメントを見て身構えていないだろうか。私自身、思い当たる節が無いかと問われれば、あると言わざるを得ない。

 

しかし、それではオリジナリティのある批判精神が育まれない。以下、そのデメリットを記していきたい。

1.気がつくと記事よりもコメントを延々と読んでいることがある

これははてなブログに限ったことではないのだが、ヤフーコメントなど、記事よりも先にコメントを読み始めて、しばらくコメントばかり延々と読んでいることがある。

 

記事よりもコメントの方が考察が深く知見もあると思われる方がいるからだ。仮に記事を読んで『何らかの違和感』を覚えたとしても、それを自分自身では言葉で表現できない。その『違和感』を見事に解消してくれるのが痛快なコメントだ。

2.いつの間にか既知の事実になってしまっている 

例えば、最初に記事を読んでその記事に感動を覚えたとしよう。しかし、実際にコメントを読むと感動はおろか批判が寄せられていた。「こんな記事はテンプレートを焼き増したに過ぎない駄文だ」と。

 

すると、それまでに覚えていた感動は胸のうちから消え去り、この記事のために流した一滴の涙を返せと言わんばかりに、途端に自分の中に批判精神が生まれる。そしてそのテンプレートを知っていたかのように、記事に対して同じように批判を加える。果たしてそれは意味のある批判だろうか。

3.批判そのものには意味がない

確かにそれは正しい批判かも知れないが、他人の言葉や知識を借りた批判でしかない。はっきり言って、批判自体に意味が無い。既に叩かれ尽くして焦土と化した大地に朽ちた死者に鞭打つだけの、火に油を注ぐコメントである。

 

そこに何か意味や価値を付与するとすれば、批判の手段をこねくり回して語彙やユーモアで差別化を図るというオモシロコメント合戦ぐらいだ。

4.まずは無知だったことを自省すべし

機転の利いたコメントを残したいという気持ちは分かる。しかし、もしそこに寄せられたコメントが最初に記事から受けた印象と180度違う意見だった場合は、まずは己の無知を恥じるべきだ。

 

コメントをするなとは言わない。叩く前に、批判をする術を知らなかったことをしっかりと覚えておくべきだということである。さもなくば、いつの間にか理想とは裏腹な自身の現実を棚に上げて、『架空の自分』を創り上げて上から目線でコメントをすることになる。

 

つまり、はてなブログの読みすぎで寝食も忘れて、カップラーメンを片手に「健康的な生活をしろ!」と他人に批判を加えていることはないか?ということだ。完全なる本末転倒である。他人を批判しながら、結局自分自身では何ひとつ成し得ていないのだ。

5.キャラが立っているだけに厄介 

はてなコメンテーターとでも言うのだろうか。「この人がいう事は間違いない」という傾向があるのがはてなブログブクマカだろう。いつの間にかその名物コメンテーターの意見が自分自身の意見になっているのである。そうなればもはや『はてな脳』におかされたも同然だ。

 

それでは自分自身の思考が失われてしまうし、他人のコメントで本質を捉えた気になってしまう。実際、的を射ているだけに余計にタチが悪い。記事を読みもせずに読んだ気にすらなってしまう。

6.自分の意見を持つという事が大事

なぜこんな当たり前のことを言うのかというと、要はこの記事がブーメランとなって自分自身に飛んでくるからだ。なんなら既に後頭部に刺さっている。一人前に他人を批判しながら何も変えられない自分を変えたいのである。

 

理想論ならAIだって言える。最適解はコンピュータが出してくれる。人間は理想通りにはいかないからこそ面白いのだ。

 

だとすれば、批判を覚悟で一歩踏み出してみる。ともすれば常識とはかけ離れた間違った自分をさらけ出す。同意は求めない。

 

はてなブログは、自分を変えることのできるチャンスを与えてくれる場だと考えている。さあ、私は今から変わるのだ。

 

以上