とある編集者の晒しな日記

コンクリートジャングル東京の編集プロダクションに勤めるライターの実験室

海鮮丼とフィッシャーマンに目を覚まされました!

こんばんは!zorazoraです。

 

今日は宮城県三陸地方に出張に行ってきました!!日曜の夜行バスに乗って現地に今朝ついたんですけど、一昨日が友人の結婚式の二次会→三次会→カラオケでオールって流れだったんで、ぶっちゃけ半分死んでましたよね(汗

 

胃腸を壊してるから飲めないはずなのに、めでたい席で飲まないのも無粋ですからね…言い訳です、はい(猛省 あんまり記憶にないですが20杯はいかせてただきましたorz

 

そんなわけで意識がモウロウとした中で仕事をしたわけですが、三陸って行く前はまだ復興の途上ってイメージだったんですよ。実際そういう部分はあると思います。「復興」ってゴールがないですからね。強いて言えば、例え震災で何かを失って失意の底に落ちても、その人たちみんなが前向きになって立ち上がることができれば、「復興」と言えるのでしょうか。

 

でも、現実はそんなに簡単なことではないことはわかります。被災地のインフラが整ったからって、簡単に「復興した」なんて言えないこともわかります。同じ立場に無いのだから、未だに前向きになれない人の気持ちをわかってあげられないこともわかります。

 

わかってあげられない人たちを無理に理解しようとしても仕方ありませんが、もし自分が同じ立場に立たされた時、どういうことを思うのかということはよく想像します。大概、歴史の中に答えがあると思います。必ず、ある小説の一節が浮かびます。

 

「現代は本質的に悲劇の時代である。だからこそわれわれは、この時代を悲劇的なものとして受けいれようとしないのである。大災害が起こり、われわれは廃墟の真っただなかにあって、新しいささやかな希望をいだこうとしている。それはかなり困難な仕事である。いまや未来に向かって進むなだらかな道は一つもないから、われわれは、遠回りをしたり、障害物を越えて這いあがったりする。いかなる災害が起こったにせよわれわれは生きなければならないのだ」

 

これ、東日本大震災の後に書かれた小説じゃありません。DH.ロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』の小説の冒頭です。第一次世界大戦の後の話です。「いきなければならない」かどうかは知りませんし、人災と天災の違いがあるので一概に一緒にはできませんが、歴史を振り返ると悲劇って繰り返してるんですよね。で、そのたびに人々は這いあがって今があると思うんです。

 

ネタバレになるので詳しくは書きませんが、ちなみにこの小説、チャタレイ夫人が戦争で下半身不随に陥った夫に愛想を尽かし、別の男に熱をあげて、この後完全な官能小説と化します(爆 

 

理性と欲望の極致が描かれていてものすごい考えさせられます(あまりのエロスに『チャタレイ事件』として裁判になったくらいですから興味のある方はどうぞ(笑))。

 

んで、私はというと本能のままに生きることは難しいので、今まではどちらかというと理性が勝ってきちゃった感じですかねー。単に臆病なだけとも換言できるかも知れません(汗汗

 

それはともかく、 三陸には件の小説の冒頭のように新しい希望を抱いて立ち上がっている方々がたくさんいました。特に三陸女川の海で出会った若い漁師さんたちには刺激を受けました。こういう若い人たちが新しい時代を築いていくんだろなと容易に分かるほどの陽気さ!おもわず目を細めて青春時代を思い出しましたよね。あの動物たちと戯れて王国を築いていた時代の話です。

 

よーしよしよしよし!(はーと

 

ムツゴロウか!?(脂汗 そしてその女川の海で漁師さんたちが獲った魚をふんだんに盛った「おかせい」さんの『特選女川丼(一眼レフが壊れて写真をアップできないのが残念です汗)』。2600円しますけど、正直この豪華さなら鮨屋は必要ないなと思っちゃいました(爆)。

 

海の幸に恵まれて力強く生きぬく若いフィッシャーマンさんたちに無限の可能性を感じた1日でした。おかげで体重は300グラム、体脂肪率は0.1%増加して16.5%でした(トホホ